私が開業したわけ
日本に帰省する度に鹿児島にある
鍼灸、整体、リンパマッサージ、
エネルギー療法の総合治療院の
マイスターのお世話になり病気、症状の
根本原因についても説明を受けていた。
鍼灸、整体、リンパマッサージ、
エネルギー療法の総合治療院の
マイスターのお世話になり病気、症状の
根本原因についても説明を受けていた。
2013年12月25日に主人が
脳梗塞で倒れ重度の右半身麻痺と
脳梗塞で倒れ重度の右半身麻痺と
言語障害と言う困難にぶつかる。
薬も必要最低限に抑えるようにして
いたがそれでも副作用に悩まされていた。
いたがそれでも副作用に悩まされていた。
食事も色々よいと言うものを試した。
リハビリにも出来るだけ付き添い、
ありとあらゆることをしてそれなりの
成果は出たが、その後の大きな進歩が
だんだん出ない状態になりました。
ありとあらゆることをしてそれなりの
成果は出たが、その後の大きな進歩が
だんだん出ない状態になりました。
2015年と2016年の夏、主人は
鹿児島県霧島市の霧島リハビリテーションセンターと
鹿児島県霧島市の霧島リハビリテーションセンターと
言うリハビリ専門のクリニックで川平法と
言う促通反復療法を受けました。
言う促通反復療法を受けました。
スイスではまだ知られていない療法で
リハビリ医の許可をいただいて
リハビリ医の許可をいただいて
私も手取り足取り手技を習う。
2016年夏日本に帰省中、主人は
日本のマイスターから治療を受けて
リハビリを休み、本人の好きなように
させました。そして10日程何もしないで
リハビリに行った時に何もしていなかった
に関わらず手、指の動きが出て来て治療の
効果を実感しました。
霧島リハビリテーションセンターの
OTさん(作業療法士)もびっくりされていた。
日本のマイスターから治療を受けて
リハビリを休み、本人の好きなように
させました。そして10日程何もしないで
リハビリに行った時に何もしていなかった
に関わらず手、指の動きが出て来て治療の
効果を実感しました。
霧島リハビリテーションセンターの
OTさん(作業療法士)もびっくりされていた。
自分も主人をよくならせることだけに
一生懸命だったが、まずは自分が幸せに
なることが一番、そしたら楽しそうに
している私をみて主人も変わってくると
教わり、好きなことをして行くようにしました。
一生懸命だったが、まずは自分が幸せに
なることが一番、そしたら楽しそうに
している私をみて主人も変わってくると
教わり、好きなことをして行くようにしました。
2009年からしている異文化通訳の仕事も
以前は主人のリハビリが入っていると断って
以前は主人のリハビリが入っていると断って
主人の送迎をしていたが、好きな仕事を
優先するようにしました。
優先するようにしました。
主人の笑顔もだんだん増えていき、
自分から散歩に出るようになりました。
自分から散歩に出るようになりました。
杖をついて5kmくらい歩けるまでに回復。
2015、16年に帰国時に、
変身ビューティセラピストの講座を
受講してディプロマを取得。
スイスに戻ってから主人の治療を始める。
主人の右半身麻痺や言語障害も少しずつ
回復に向かい、家族や友人、知人を治療して行くうちに
回復に向かい、家族や友人、知人を治療して行くうちに
治療の効果をますます感じて行く。
ここでの治療は肉体、脳、魂(心)
全ての分野に働きかける治療、
全ての分野に働きかける治療、
すなわち潜在意識に働きかける治療法です。
長いスイス生活の中で心と体のバランスを
崩す方がいらっしゃることを知り
崩す方がいらっしゃることを知り
自分の経験を生かし、そう言う方達が
また笑顔になれるお手伝いをしたい
と思うようになりました。
また笑顔になれるお手伝いをしたい
と思うようになりました。
院長プロフィール
私は幼い頃から外で遊ぶのが大好きで
真っ黒だったのでよくクロンボと
呼ばれていました。幼少時は小柄な方
でしたが、相撲大会で男の子を負かす
ようなおてんば娘でした。
真っ黒だったのでよくクロンボと
呼ばれていました。幼少時は小柄な方
でしたが、相撲大会で男の子を負かす
ようなおてんば娘でした。
小学校6年で当時高級な英文タイプライター
を買って欲しい、英語を勉強したいと泣いて
何時間も両親に懇願したちょっと変わった子供でした。
当時から根拠もなく外人と結婚すると
親や祖母に言っていたらしい。
を買って欲しい、英語を勉強したいと泣いて
何時間も両親に懇願したちょっと変わった子供でした。
当時から根拠もなく外人と結婚すると
親や祖母に言っていたらしい。
本人は記憶にない。(笑)
小学校でバレーボール、中学で卓球、
高校でハンドボール部に所属して
楽しい青春時代を送っていました。
ハンドボールではインターハイに出場
するのが当たり前の伝統ある高校だった
ので朝早くから夜遅くまで練習漬けで
そこで根性をかなり鍛えられました。
高校でハンドボール部に所属して
楽しい青春時代を送っていました。
ハンドボールではインターハイに出場
するのが当たり前の伝統ある高校だった
ので朝早くから夜遅くまで練習漬けで
そこで根性をかなり鍛えられました。
商業科を卒業した私は東京の三鷹にある
薬品会社に事務職で就職しました。
薬品会社に事務職で就職しました。
その会社は病院等と取引があった関係上、
医療事務に興味を持つようになりました。
医療事務に興味を持つようになりました。
2年後会社を辞めて、昼間はバイト、夜間は
医療事務の学校に通い資格を取得。
医療事務の学校に通い資格を取得。
地元の鹿児島に戻り、医療事務の仕事を
始めましたが、今度は添乗員の仕事に興味をもち、
再び東京に上京しトラベルジャーナル
始めましたが、今度は添乗員の仕事に興味をもち、
再び東京に上京しトラベルジャーナル
専門学校に入学しました。
そこで添乗のノウハウを学び、国内添乗の
仕事を始めました。好きな旅行が仕事で行けて、
仕事を始めました。好きな旅行が仕事で行けて、
大勢の方のお世話も出来、充実した期間でした。
海外にも添乗したかったのですが、
当時英語がそれほど出来なかったので
英語を勉強するためにオーストラリアの
シドニーの語学学校に入りました。
そこでスイス人の彼と知り合い、日本が
昭和から平成に変わろうとする年に
スイスにお嫁に来ました。
当時英語がそれほど出来なかったので
英語を勉強するためにオーストラリアの
シドニーの語学学校に入りました。
そこでスイス人の彼と知り合い、日本が
昭和から平成に変わろうとする年に
スイスにお嫁に来ました。
ドイツ語は何も知らずに来て、
最初は苦労の連続でした。(涙、涙)
最初は苦労の連続でした。(涙、涙)
1997年に長男、2000年には次男が
生まれ子供達に日本語で話す友達を作って
欲しいと言う思いから、知り合いの日本人女性と
二人でシュピールグルッペ (Eggおやこの会)を立ち上げました。
生まれ子供達に日本語で話す友達を作って
欲しいと言う思いから、知り合いの日本人女性と
二人でシュピールグルッペ (Eggおやこの会)を立ち上げました。
自分も含めてそかく、孤独になりがちな
外国暮らしの仲間たちと交流を深め、
現地の暮らしをいかに快適に過ごせるように
なるか、お茶の時間に情報交換をしました。
外国暮らしの仲間たちと交流を深め、
現地の暮らしをいかに快適に過ごせるように
なるか、お茶の時間に情報交換をしました。
なんとかドイツ語で日常会話は話せるように
なっても子供が小学校に入り宿題を持って
帰ってくるとそれも的確に教えられない
問題に直面。。。
これではいかんとドイツ語コースに入り直し、
今度はドイツ語試験でC1と言うレベルまで取得しました。
なっても子供が小学校に入り宿題を持って
帰ってくるとそれも的確に教えられない
問題に直面。。。
これではいかんとドイツ語コースに入り直し、
今度はドイツ語試験でC1と言うレベルまで取得しました。
スイス人の中にも積極的に入って行くうちに
寿司教室やってと言うママ友からの
リクエストが来て月1回くらいで教えたりもしました。
寿司教室やってと言うママ友からの
リクエストが来て月1回くらいで教えたりもしました。
仲良くなったブラジル人とフィリッピン人の
女性と異文化交流の会 (IKI: Interkultureller Infotreff) を
立ち上げ、定期的に外国人が興味のある
テーマを選びそれに適した講師をお呼び
してスイスで暮らす外国人が必要な 情報を
提供し異文化交流にも貢献。
女性と異文化交流の会 (IKI: Interkultureller Infotreff) を
立ち上げ、定期的に外国人が興味のある
テーマを選びそれに適した講師をお呼び
してスイスで暮らす外国人が必要な 情報を
提供し異文化交流にも貢献。
そこに参加する国際結婚組や駐在で
一定期間滞在される日本人の方に通訳を
するうちに異文化通訳と言う職業に
大変興味を持ち、その資格を取得するために
2009年から約1年かけて講座に通いました。
一定期間滞在される日本人の方に通訳を
するうちに異文化通訳と言う職業に
大変興味を持ち、その資格を取得するために
2009年から約1年かけて講座に通いました。
この職業は医療、教育、社会福祉が
主な通訳分野だったので大学病院、精神科、
心理カウンセリング、学校、福祉事務所等が
主な仕事場所でした 。
主な通訳分野だったので大学病院、精神科、
心理カウンセリング、学校、福祉事務所等が
主な仕事場所でした 。
心の不調から体を壊された方の通訳を
する機会も多々ありました。
する機会も多々ありました。
電話通訳の資格も取りその時に医療専門用語、
病理学専門用語も深く勉強し、
この変身ビューティセラピストの仕事に
関わって行く上で大変役に立つことになりました。
病理学専門用語も深く勉強し、
この変身ビューティセラピストの仕事に
関わって行く上で大変役に立つことになりました。
2013年12月に主人が脳梗塞を発症し、
彼に頼っていたことを全て自分で
解決しなければならない状況に陥りました。
当時長男はスイスでレーレと呼ばれる
職業訓練学校に入ったばっかり、
次男は中学1年で二人の思春期の男の子を
抱え、母親業、父親業、主婦、仕事、
主人のリハビリにも付き合う日々。
職業訓練学校に入ったばっかり、
次男は中学1年で二人の思春期の男の子を
抱え、母親業、父親業、主婦、仕事、
主人のリハビリにも付き合う日々。
自分が楽しく、周りも楽しくをモットーに過ごす。
2017年3月主人の突然の死去を乗り越え、
5月12日に治療院をリニューアールオープン。
末期癌の義理の父の介護を続けながら、
来てくださる患者様の治療の日々。
来てくださる患者様の治療の日々。
常に楽しく笑顔で治療をしています。
患者様から治療中の不思議な体験や
治療を受けた後の色々な嬉しい報告を
聞くのが楽しみです。
治療を受けた後の色々な嬉しい報告を
聞くのが楽しみです。
患者様からの感想や嬉しい報告は
追ってご紹介します。
お楽しみに。